田中冨久子のホルモン学講座

第2回 閉経はヒトの進化を示す ものだというが

 基礎医学者として夢中でホルモン、とくにエストロジェンの働きにかかわってきて、そしてそのあげくに臨床家としてエストロジェンにかかわるようになり、今更のように、なぜ、ヒト女性はこのような、時に過酷な閉経後の時間を過ごすはめになってしまったのだろうかとつくづく考えるようになった。

 日本女性の平均寿命は約86歳で、平均閉経年齢が50歳。ということは、近年の日本女性は閉経後、40年近くの時間を生きることになってしまっている。それもエストロジェンという閉経まで身体と脳を守ってきた守護神的なホルモンなしに、である。この守護神云々については、今後、つらつらと述べていくが、その前に、ヒト女性が閉経を迎え、生殖期を終ったあと、医学用語で後生殖期あるいは単に老年期と呼ばれる人生の長い時間を生きることになった由縁を考察しておきたい。

 人類学者らは、後生殖期のヒト女性は、子育ての知恵や経験を生かして種の繁栄に貢献するように進化した、そして、あたかもそのために生きる価値があるかのように言っている。1998年に、米国のクリステイン/ フォークス教授らが提唱した、有名な「おばあさん仮説」である(文献1)。2007年には、米国と日本の国際研究チームが、アフリカの野生チンパンジーのメス、534頭分の出産データを調べた結果、50年以上生きることはまれだが、死の直前まで子どもを産んでいて、出産能力をなくすのと寿命が終わるのがほぼ同時だったことを確認した。これによって「おばあさん仮説」を裏付けたと報告した(文献2)。なお、チンパンジーは28日の月経周期を示すなどヒトとほぼ同じ生殖機能をもっている。

 しかし、私は、この「おばあさん仮説」には反対だ。まず、男女で子育てをしていこうというこの時代に、女性であるフォークス教授が、女性の性役割として子育てを挙げ、そのために人類が進化した、とまで言うのは受け入れられない。こういった理屈が通るなら、これからのために、「親の介護仮説」を提唱した方がよい。後生殖期といわず閉経前後にいる女性たちには、今や、親の介護が重くのしかかっている。そのために、更年期症状が加速している人も多い。また、一方で、女性ほど長くはないが、男性の寿命も伸びている。このための理屈もつけなければならない。 私は、ヒトに生殖期後の人生をもたらしたのは、チンパンジーとは異なるように進化したヒトの脳であると考える。ヒトとチンパンジーのゲノムの違いはわずかだというし、また、共通の祖先からのヒトとチンパンジーへの進化のあいだに、ゲノム全体としてはたったの4%の違いしかおこっていないともいう(文献3)

 さらに、脳の進化を、脳の容量と表面積の関係というパラメータで評価しても両者は同一の線上にある(文献4)。しかし、それでも脳の内容、たとえば大脳新皮質全体に対する前頭連合野の比率というパラメータで評価すると、ヒトは29%だが、チンパンジーは17%だと言われ、ヒトはチンパンジーとは著しく異なる進化をしたことが推測されている。前頭連合野というのは前頭葉の前部を占め、後頭連合野や側頭連合野から送られてきた情報をもとに思考し、行動をおこす役割をもっている。ヒトとしての特徴である言葉をしゃべる機能もここにある。ヒトは前頭連合野がチンパンジーよりも格段に進化したことにより、創造的、適応的活動を行うことが可能となったと考えられているのだ。

 それでは、この脳を得て、ヒトはどう生きることになったのか。私は、みな同じ遺伝子をもっているはずの現世人類の寿命が、時代によって、そして地域によって著しく異なること、そして、全体としては、今に近づくにつれ伸びているという事実があることに注目する。この特別なヒトの脳が作り出している文明、つまりは科学が、ヒトの生命の長さを延長させる基盤になっているのではないか。

 たとえば、日本では、平均寿命は、明治24-31年には、男性42.80歳、女性44.30歳だった。その後、平均寿命は、昭和22年には、男性50.6歳、女性53.96歳と伸張し、平成12年には、男性77.72歳、女性84.60歳、そして平成21年には、男性79.29歳、女性86.05歳になった(厚生労働省、平成19年簡易生命表)。しかし、一方、たとえば、現在でも、レソト王国では、男性35.0歳、女性38.0歳、ボツワナ共和国では、男性36.0歳、女性37.0歳(いずれも、海外勤務健康センター研究情報部, 2007年)だという。同じ遺伝子をもつのに、なぜ、平均寿命にこのような違いができてしまうのか。これは、遺伝子以外の要因が働いていることを強く示唆している。

 寿命の長さを論じているわけではないが、やはり人類学者である米国のアシュレイ/モンターギュが、その著書(文献5)で以下のように述べている。「(ヒト以外のー著者)動物は、遺伝子にもとづく特定の身体上あるいは行動上の特徴を進化させることで、環境に適応する。そして人類の適応は、おもに『発明する力』を発達させたことにあった。人類の身体的遺伝がその発達の素地をあたえ、社会的遺伝がそれを実現する手段をあたえた」。そして「環境にたいする物理的反応に関するかぎりにおいて、人類は、他の生物にみられるような遺伝への依存から、ほとんど完全に解放されている。人類は、社会的遺伝、すなわち文化(文明か?ー著者)があたえてくれるものは何でも学ぶことによって、実にユニークに遺伝への依存をこえてしまった。人類は、短期の、または長期の適応をとげるのに、他の生物よりずっと効果的な手段をもった」。だから、「1635年の頃、ヨーロッパ人の平均寿命は33と3分の1年であったが、今日、その2倍以上にも伸びた。それは、医学や薬品の進歩に加え、私たちが、日々の生活状態の改善ということに確かな考察をくわえてきたからだ」と。

 彼も、私と同じように考えていた。 つまり、ヒトはチンパンジーと比べ格段に大きくなった前頭連合野を駆使して、生殖期後の生命を得てきたのだ。だから、ヒトは種族を繁栄させるように進化して長生きになったわけではない。ヒトはまず脳の進化を得て、その結果、生命を維持するためのさまざまな手段—科学—発展させることによって長生きになったのだ。

 ただし、なぜ、ヒトの脳がチンパンジーより大きくなるように進化したのかについては、無数の仮説が入り乱れていて結論は出ていない。モンターギュはこう考えている。「ヒトは子どもの類人猿だから」と。ヒトは祖先である類人猿のおとなの部分を切り捨て、子どもの部分を伸ばすことによってできあがったと考える。ヒトの進化の基本原理に「ネオテニー(幼形成熟)」という過程があるからだと考える。
脳も、ネオテニーによって可塑性、柔軟性という性質が維持され、生涯にわたる脳の発達が行われるようになったのだと。 ネオテニーの原理について、ここで簡単に述べることはむずかしい。ただ、ヒトは、おとなになっても遊び心をもつ、ヒトは、本当に、いい年をして遊ぶ唯一の動物だ、ということがチンパンジー以下の動物とは異なるのだ、という考えだ。

 (前頭連合野の)創造的能力による発明、発見も遊びの延長だ。チンパンジーだけでなく、野生の動物すべてにとって、生きるということは、すなわち、子どもを産み、育てることなのだ。だから、ヒトの閉経までの50年はチンパンジーの一生と等価のものである。しかし、そのあとの40年は生殖活動なしに遊びつつ生きるように進化した。これが、ヒトが類人猿からのネオテニー進化によって得られた成果だとモンターギュは言う。

 だから、と私は思う。ヒトだけに与えられた閉経後のこの40年を、モンターギュの言う意味で、いかに楽しく生きるか、は大変に重要な課題である。その時間を、エストロジェンがなくなったがために、睡眠障害になり、落ち込み、骨折し、認知症になってつらいものにするのは、進化した脳をもつ動物のやることではない。ヒトの前頭連合野は、その創造的、適応的能力によって生命の長さを延ばすことに成功してきたが、さらに、これにエストロジェンの補充をするという改良を加えることで、今度は生命の質を高め、生き生きと楽しめる人生にすることが必要になるのだと思う。

文献

*1.Hawkes K et al, Grandmothering, menopause, and the evolution of human life histories. PNAS 95; 1336-1339, 1998.

*2.Thompson ME et al, Aging and fertility patterns in wild chimpanzees provide insights into the evolution of menopause. Current Biology 17; 2150-2156. 2007.

*3.脳の進化、山森 哲雄、石川 統ら編/著 ヒトの進化学、岩波書店、109-135、2006

*4.Jerison HJ, Evolution of the Brain and Intelligence. Academic Press, 1973.

*5.Montague A, Growing Young, MacGraw-Hill, 1981. (翻訳本は、尾本恵市と越智典子訳、1986、どうぶつ社刊「ネオテニー/新しい人間進化論」)