田中冨久子のホルモン学講座

第6回 女性の脳はエストロジェン によって活性化される
    - エストロジェンによるアセチルコリンの分泌

 これからシリーズでは、脳のはたらきが、性ステロイドホルモン、とくにエストロジェンによって強くコントロールされていることを話していきたいと思います。今回はその(1)として、脳のなかで記憶中枢とはたらいている「海馬=かいば」の機能が、女性ではエストロジェンによって活発化されることを、私たち横浜市大医学部研究グループが行なったラットの実験をもとに話したいと思います。

海馬は記憶の中枢
 海馬は、図1(※文献1)で見られるように、一見、たつのおとし子のような形をして側頭葉の内側にある構造物です。私たちは、生活しているなかで、見たり、聞いたり、触ったり、嗅いだり、味わったりといった感覚情報を得ますが、これらの情報は、後頭葉新皮質の表面にあるそれぞれの感覚野に伝わり、知覚され、認知されます。このように認知された情報はさらに前頭葉新皮質に送られて、自分はこれから何をすべきかを考えるのですが、その際、情報は海馬にも伝えられて、ここで記憶を形成する作業が行なわれることになります。

 海馬の記憶におけるはたらきについては、1957年にアメリカで、てんかんのため、両側の海馬を手術で切除されたH.M.さんという男性が、新しく見たり、聞いたりしたことを全く記憶できなくなったことが報告されてから研究が進み、明らかにされてきました。

マイネメト基底核

アルツハイマー型認知症
 さて、老年期を迎えた私たちにとって最も怖い病気として、記憶機能が障害されるアルツハイマー型認知症があります。この病気の由来は、1901年にドイツの精神科医アルツハイマーが、51歳で記憶障害と見当識障害(時間と場所の感覚)をもって発病し、高度の痴ほう状態に陥って56歳で死亡した女性の脳を解剖し、大脳皮質に老人斑と神経原線維変化という病変を発見。後にアルツハイマー病と命名されたことに始まります。現在は老年期認知症のうちこのような脳の変化を示す病気をアルツハイマー型認知症とよんでいます。

 アルツハイマー型認知症では大脳皮質全体の萎縮の他に、海馬の萎縮が特徴的に起こっています。そして、そのために、アルツハイマー型認知症の中心的症状は、記憶障害と見当識障害であることは、新皮質と海馬の働きからお分かりいただけると思います。

アルツハイマー型認知症とアセチルコリン
 このようなアルツハイマー型認知症の原因は何でしょうか。最も知られているのは、アセチルコリン仮説というものです。海馬には、図1に描き込まれているように、中隔核というところからアセチルコリンという神経伝達物質を分泌する神経線維が到達しています。新皮質全体にはマイネルト基底核というところから、同じようにアセチルコリン神経が到達しています。アセチルコリン神経細胞が興奮すると、神経線維の末端からアセチルコリンが分泌され、海馬や新皮質の神経細胞の活動を上昇させ、これらの場所に特有なさまざまな働きが引き起されます。

 たとえば、私たちが目覚めて、勉強や運動をしているとき、脳内にはアセチルコリンが分泌されていて、新皮質では、特徴的な脳波であるベータ波が、海馬ではシータ波が出ているのです。さらに、近年では、海馬では、シータ波によって神経細胞が新しく産生されていることもわかってきています。
こういったことから、日本で唯一認可されてきた認知症に対する治療薬、塩酸ドネペジル(商品名;アリセプト)は理にかなったものといえるでしょう。この薬は、選択的にアセチルコリンの代謝を阻害することで脳内のアセチルコリン濃度を上げるからです。なお、今年になってもう一つの治療薬、ガランタミン臭化水素塩(商品名;レミニール)が発売されましたが、やはり、アセチルコリン代謝を阻害する作用をもつものです。

海馬に分泌されるアセチルコリンとエストロジェン
 さて、はじめに述べましたように、今回の講座は、脳のなかで記憶中枢としてはたらいている「海馬」の機能が女性ではエストロジェンによって活発化されることをお話することが目的です。結論から言いますと、エストロジェンは脳内ではアセチルコリン分泌を刺激して、脳の働き全体を活性化させます。海馬の機能も活発化するということなのです。図2は、性ステロイドホルモンが海馬に分泌されるアセチルコリン量にどのような影響を与えるかを24時間にわたって調べた結果です(※文献2)

 ラットは夜行性の動物ですので、正常なラットでは、メス、オスとも、夜間に活動が増加することを反映して海馬内へのアセチルコリン分泌量は夜間に増加します。グラフの横線が夜間を示します。
そして、卵巣や精巣を摘除して血中のエストロジェンやテストステロンを低下させると、いずれの性においても夜間のアセチルコリン分泌量が減少することが分かりました。そこで、メスではエストラジオール(エストロジェン)、オスではテストステロンの補充を行なったところ、夜間のアセチルコリン分泌量は正常ラットと同等にまで回復しました。しかし、オスへのエストラジオール、メスへのテストステロンの補充は効果がありませんでした。

 今回の講座では、このような私たちの実験結果から、エストロジェンが脳に作用してアセチルコリン分泌を刺激し、それによって海馬の記憶機能を高める作用のあることが推測される事をお話しました。

文献

*1.シンプル生理学 改訂第6版、貴邑冨久子+根来英雄 南江堂 2011年、図4-36

*2.Mitsushima D, Takase K, Funabashi T, Kimura F. Gonadal steroids maintain 24 h acetylcholine release in the hippocampus: organizational and activational effects in behaving rats. Journal of Neuroscience 2009, 29; 3808-3815