田中冨久子のホルモン学講座

第1回 エストロジェンと睡眠の深い関係

 私は、何十年にもわたってホルモンについての基礎的研究に従事してきた。
なかでも、卵巣ホルモンの一つ、エストロジェンの脳への作用には心を奪われ、執着し続けてきた。
そして、みなとみらいクリニックの田中俊一理事長のお誘いも得て、今度は臨床家としてエストロジェンと関わる道を選んだ。

 私がはじめてエストロジェンと出会ったのは、横浜市大医学部第2生理学教室で、医学部学生としてであった。アメリカ留学帰りの、新任の、故川上正澄教授が学生たちの協力を得て、精力的に研究を開始していた頃だった。
ちょうど50年前、UCLAの脳研究所で、川上先生はCHソーヤー教授とともに、脳内のさまざまの場所の電気刺激によって徐波睡眠と逆説睡眠が誘発されること、そして、卵巣摘除したウサギにエストロジェンを投与しておくと、より小さな電気刺激でこれらの睡眠が誘発されることを見つけて世界に発表した (※文献1)

 逆説睡眠は、今はレム睡眠と一般に呼ばれている睡眠で、ちょうど、川上先生たちの1—2年前に、ネコが熟睡しているように見えるのに、脳波上は覚醒しているというパラドックスが初めて発見され、この独特の睡眠は逆説睡眠と名付けられていた。その後、この睡眠の時には目玉がグルグル回転する急速眼球運動が起こっていることなどから、一般にレム(rapid eye movement=REM)睡眠と呼ばれるようになってしまった。しかし、ここで大事なことは、エストロジェンという卵巣ホルモンが脳に作用して睡眠に影響を与える、という発見である。エストロジェンが脳に作用する、ということも世界初めての発見であるし、また徐波睡眠と逆説睡眠を起こりやすくする、ということも世界初めての発見である。川上先生は、帰国後、すぐに横浜市大に着任し、新たな睡眠とホルモンの研究を開始した。そして、私は、世界で初めての研究に強く惹かれ、卒業後、彼の大学院生となり、エストロジェンとの付き合いが始まった。

現在、臨床家として更年期の女性たちを診ていて最も印象的なことは、如何に睡眠の異常が多いか、ということである。入眠しにくい、しばしば目覚めてしまう、深く眠れない、などなど沢山の睡眠障害の症状がある。研究報告を見ると、若年成人女性では、ステージ3/4の深い徐波睡眠が総睡眠量の20%近く、レム睡眠も30%あるのに、中高年女性では、前者は10%以下、後者は20%になってしまうという (※文献2)

また、これもウサギでの研究であるが、卵巣を摘除すると、睡眠—覚醒のサーカデイアンリズム(慨日リズム:日周変動のこと)に変化が現れ、夜行性といわれるウサギにとって夜間は強く覚醒していなければならないのに、徐波睡眠とレム睡眠が正常ウサギよりも増加するという。そして、エストロジェンを投与すると夜間のこれらの睡眠が減少する(※文献3)。 人は昼行性なのでこの逆と考えると、エストロジェンが欠如した状態では、昼間の行動の特徴である覚醒と、夜間の行動の特徴である睡眠が明瞭に出現しにくくなることが推測される。つまり、サーカデイアンリズムの振幅が減弱する、と表現される状態になってしまうのである。

 更年期の女性たち、あるいは更年期に突入しつつある女性たちは、自分の睡眠—覚醒というごく当たり前の日常の行動に、こういう変化が現れ得るのだということを認識していた方が良いだろう。
そして、そのメカニズムは、それまで卵巣が分泌してきたエストロジェンという卵胞ホルモンの脳への働きが失われるためである、ということを知っていてほしい。

文献

*1.Kawakami M & Sawyer CH, Induction of behavioral and electroencephalographic changes in the rabbit by hormone administration or brain stimulation. Endocrinology 651; 631-643, 1959.

*2.香坂 雅子、加齢による睡眠ならびに睡眠障害者の性差、性差と医療 2;45−50、2005。

*3.Spies HG, Whitmoyer DI Sawyer CH, Patterns of spontaneous and induced paradoxical sleep in intact and hypophysectomized rabbits. Brain Res 18, 155-164, 1970.